平和の大切さ
- 公開日
- 2012/09/05
- 更新日
- 2012/09/05
学校日記
9月3日(月)始業式の後に、岩倉市小中学校平和祈念派遣事業の一環として、長崎市を訪問した6年生代表児童の報告会を行いました。以下は、その発表内容です。
「日本は67年前の8月、原子爆弾による悲劇に直面しました。6日の広島、9日の長崎、そして15日の終戦。それは、私たち小学生が生まれるずっと前の出来事でした。この時代に日本で何が起きたのか、想像すらできませんでした。
私は、2012年平和祈念式典に派遣団の一員として参加しました。そこで原爆の悲惨さを学んできました。実際体験した人の話を聞いたり、原爆が落ちた場所に行ったり、平和祈念式典にも参加しました。『長崎・平和の像』の天を指す右手は原爆の怖さを、水平に伸ばした左手は平和を、軽く閉じた目は戦争犠牲者のめい福を祈っているそうです。
また、資料館では、ガラスが溶けて手の骨にくっついた物も見ました。原爆が落とされた浦上川にも行きました。この川で67年前にたくさんの人が息絶えたことなど想像もつきませんでした。自ら川に飛び込む人が大勢いて、死体の山となっていたそうです。
また被爆体験の話をおじいさんや、おぱあさんから聞きました。
ロから内臓が飛び出ている人がいたことや、赤ちゃんの頭が爆風で飛んで首のない赤ちゃんをお母さんが抱いていたこと。川で遊んでいた弟が、熱線をあぴて死んでしまったこと。聞いたときはすごく悲しくて、涙が出そうでした。
参加する前の作文に、原爆が落とされた時に私と同じ年の子達がどうしていたのかを調べたい。と書きました。子ども達の中には、学校の校庭で野菜を育てている子もいれば、工場で働いている子もいました。原爆はこの子達におそい掛かり、1500人の児童の内、約1300人が亡<なりました。熱線により皮膚が溶けたり、ロがくっついて開かなくなったり、目玉が飛び出て胸までたれていたり、『水をくれー、水をくれー』と叫んだり、『痛い、痛い』と泣き叫ぶ子ども達であふれていたそうです。
長崎に落ちた爆弾は太陽よりも熱く、爆風は新幹線よりも速く、放射線は防空壕の奥まで届いたそうです。
戦争をして勝ち負けはあるけれど、人が苦しむだけだから、戦争が二度とあってはいけないと思います。私は長崎に行くまでは、戦争は悲しい事だと、聞いて知ってはいたけれど、自分が思っていたことよりもはるかに悲しい出来事でした。
この2日間で体験した事は、帰って来てからも、1日も忘れることはありません。日本でこんなに悲さんなことが2回も起きたのに、なぜ核兵器を持っている国はそれをわかってくれないのだろうか。核兵器が、世界からなくなればいいと思います。核兵器のない平和な世界が、いつか来る日を願ってます。
私たちは今、小学校で学んでます。普通の事が普通にやれる幸せ、友達と一緒に笑っている時、家族と一緒に食事をしている時の幸せ、戦争の無い平和の尊さをあらためて感じています。この気持ちを学校のみんなや家族に伝えたいと思いました。友達や家族を思いやる温かい心を持ち、永遠に平和が続くように願っています。」